なんか色々まとめ

ちょうどいい節目なので、何節かにわけて最近の動向や思ったことをつらつらと綴ろうと思います。

1. アイルランド→ロンドン

本日ダブリンからロンドンに移動しました。約4ヶ月のアイルランド生活では色々やったようなやってないような、無理せずほどほどに充実した生活ができてよかったと思います。具体的な内容をすべて書くのもあれなので、直接会った人には面白かったことなど小出しにして話したいと思います。海外に行くと「成長して帰ってこい」みたいな期待をされがちですが、特に僕という人間は変わってはおりません。これまでの人生でも何度か知り合い0で見知らぬ地に環境を置くという体験はしてきましたし、もともとあまり環境には左右されない人間なので。変わったことといえば日本食への愛が増したことと足の筋肉が増えたことくらいでしょうか。あとは少しだけ英語が聞き取れるようになりましたが、やはり受験勉強を越えた英会話って難しいなってのはひしひしと感じてます。これは次の節で詳しく。
これから3週間ほどロンドンに滞在する予定ですが、電車の中の人の顔がみんな「無」なので面白いです。東京に帰ってきたみたい。アイルランドは疲れてたり怒ったりしてるひとはいても、割とみんな生きている目をしていたので。でも自分はなぜかそんなロンドンがむしろ少しだけ居心地がいいです。この理由もあとで少し。

2. 英会話って難しい

英語圏に身をおけば否が応でも英会話が身につくだろうと思ってましたが、そんなこともありませんでした。もともと英語は5教科の間で世界史と並んで苦手で、それでもなんとか受験で点数を取れていたのはすべて文法が得意だったおかげであり単語やリスニングはからっきしでした。しかし文法というのは英会話において大した役目を発揮しません。普段日本語を話す時も別に文法を意識しながら話さないですし、むしろ文法を越えた表現のほうが強いコミュニケーションに結びつくように思います。じゃあ、英会話を伸ばすにはどうしたらいいかといえば、とにかく他人と話すのが一番なんでしょうが長時間話し続けるのはなかなかに苦手ですし(これは日本語でも)、こっちでは会話は相手の話の途中で口を挟むことが多い(これは結論を先に持ってくる英語の特性のせい)のもあって割としんどかったです。う〜〜む。
あとは、そこまで無理して話そうとするほど他人と強く関わりたいとも思えないのも大きかったかもです。僕の知的好奇心はあんまり人に向かないんですね。Anyway(突然の英語)、まあそういった意味で英語が話せる人って自分と真逆の人間なのですごいなとは思います。そういう人に英会話で追いつける気がしないので早くほんにゃくこんにゃくが欲しいです。それこそ自動翻訳を使ったアプリを今作ってますが、翻訳性能がその域に到達するのは何十年後でしょうか?ともあれ、少し自分の性格のことについて触れたのでついでに内省を。

3. 自分の性格について

基本的に秘密主義者なのであまり性格について書くのは好きではありませんが、どうせバレてそうなので少し。僕は他人にはあまり興味がありません。これは家族であっても。………まあ、興味がないというと言い過ぎで、他人と関わるのは嫌いではないですし、他人がいろんなことを考えたり悩んだりしているのは面白いし知りたいとは思います。ただ、僕は他人と考え方(価値観)を共有したいとは一切思ってないです。(もちろん自然と影響されちゃうことはよくあってそれは全然良いのですが。)もちろんそこまでサイコパスではないので(多分)相手の心を理解はしてますが、理解以上は踏み込まないといった感じです。理解した上で考え方の違う人とはできるだけ関わらず、そして、たまたま出会えた考え方が比較的合う人と関わっていければ割と平穏な人生が送れそうと思ってます。考え方の違う他人と無理にその軋轢を直そうとするのは大変なので。そういった意味で「他人自体」に関心のなく「モノやサービス」を重視する東京やロンドンは割と性にあってます。
また、人の価値みたいなものも興味がないです。他者との価値競争に熱を燃やす人も多いとは思うのですが、僕はそもそも人を作り上げるのは全て環境や遺伝であると思っているのでそんな運のようなもので決まった価値を強く意識して優劣感や嫉妬を感じるのが馬鹿馬鹿しく思えるのです。もちろん人より何かができるようになったらすごいし嬉しいですが、ただそれだけのことで、それで自分の価値が人よりどうこうということもないと思ってます。禅の考え方で言うと本来無一物ですね。
そんな感じで他人がどんな人間であるかはどうでもいいので他人の好き嫌いはあんまりないです。まぁ、ちょっとだけ(?)変わり者なので得意苦手は割とあります。特に攻撃的な人は割と苦手です。他者を攻撃するってその人の何かを否定することですから、ある意味相手に興味バリバリでちょっとめんどいです。あと自分を卑下する人も価値意識が強いからなのかなって思ってます。僕はあるがままの自分を受け入れて、海に流される貝のようでありたいと思ってます。ま、とはいえ僕もたまに心が荒れることもあるのでそんな時には座禅をして心を落ち着けます。

4. 座禅にトライ

まず、座禅を始めようと思ったきっかけはなにかしらの日々のルーティンが欲しく、そんな時にたまたま「哲学な日々」という本で野矢茂樹先生が座禅をしていることを知ったからです。特に座禅は寝る前に行うので、無秩序な毎日でも締めくくりに秩序を与えられるような気がします。また座禅の精神は別に神的ななりかに近づこうとしたり無の境地に至ろうとしたりするものではなく、ただあるがままを受け入れようとすることというのが魅力的です。しばらくの間、足を組み呼吸をしながら何も気にせず素直に思考を走らせるだけでいいのです。
僕は先ほども話題に出したこの「あるがまま」という精神をとても大事にしているのですが、別に今の自分に満足して何も努力しなくていいと思っているわけではありません。僕も何かを達成したい、みんなに認められたいという思いは当然あるのでそのための努力はしますし、それがあまりうまく行かないとしょぼーんとなりもします。(´・ω・`) ただ、そういう自分をもう一段階メタ的な視点から「まあいっか」とあるがままの自分として受け入れます。自分が海に流される貝だとして、その流されている自分を見るもう一人の自分を用意するイメージです。ところで、そんなあるがままの自分をさらけ出すと僕は結構貪欲な人間なので、来年の今頃には年収1億円のAll Ireland Fiddle Championになってる予定です。うそです。では最後に僕の活動の話を。

5. サービス開発とアイルランド音楽

あんまり人には興味がないと言いましたが、人が作るサービスとか音楽には興味があります。その中でもやはり人の強い意志とか感情が感じられないものの方が好きです。ただそこに面白かったり心地の良いなにかがあるだけだと素直に受け入れられるのです。ではそれぞれについて少し詳しく。
サービス開発の方ですが、昔作ったサイトがいつの間にかYahoo!ニュースに乗りました。迷惑車ナンバー共有で「あおり運転」防ぐ? 投稿サイトの効果と課題(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース 正直問題もあるサイトなので晒すのは迷いましたが、やっぱりこうやって何かしら自分が関わったものが世に出るのは嬉しいものですね。もちろんお金も大事ですが、サービス開発という分野にはそれ以上のやりがいを感じられるような気がします。(あ、でも神様お金持ちにはさせてくれてもいいんですよ!!)今は半受注でアプリ開発を行ってますが、これが終わったら完全に自分主導でサービス開発を行いたいと思ってます。
もう一方のアイルランド音楽についてです。アイルランド音楽を少しだけ本場で覗くことはできましたが、日本にいた時とこの音楽に対するイメージはそんなに変わってません。アイルランド音楽って生活になくてもいいけど、できればあってほしいものって感じでみんなゆるく接していてよかったです。音楽自体もそうだと思うのですが割とそういう無機質な部分が愛しいです。自分もいなくてもいいけどいてもいいよくらいの人間でありたいものです。ただ、コンペティションには少し違う側面が現れていたように思います。若い子たちが中心に勝ち負けを争って一喜一憂する。プロの人たちは割とそういったコンペを嫌っているみたいです。(コンペレッスンと題したイベントでLiz Kaneが「実はコンペ嫌いなんだよね」って言ってたのは面白かったです。)そういう趣向でアイルランド音楽を続けることに関しては人の勝手なので肯定も否定もしませんが、来年はできるだけ軽い心持ちでコンペには出ようかなとは思ってます。(結局出るのは渡航費が欲しいからです。てへぺろ。)


ではこんな締まらない感じですが、数ヶ月ぶりのブログを終わります。

アイリッシュギターについて考えたこと

アイルランドに来て3日目である。今はダブリンにいる。 観光に来たのではないので、あまり外にも出ず日本から持ってきているバイトをひたすらやっているのだが、流石に疲れたのでJohn DoyleのギターレッスンDVDを一気見してみた。


「う〜〜ん。ギターって難しいなぁ。(死)」って感想が主だったのだが、才能がないならないなりにギターも弾けるようになりたいのでちょっとだけどうしたらいいか考えてみる。 そして後々また色々考えるために記録しておこうと思う。 ただ、アイリッシュ楽器のなかでも最もギターは過激な(議論を巻き起こす)楽器なので、ちょっとばっかし怖いのだが、生暖かい目で見守って欲しい。



まず、僕のギター(伴奏)(左手)の目標としては以下。

  1. 曲ごとに合ったコードをつける。
  2. 周回ごとに違うコードをつける。
  3. メロディーの雰囲気やアレンジに合ったコードをつける。
  4. オリジナリティのあるメロディカルなコードをつける。


①は当然のことなのだが、今までは基本的にD調の曲ならばD、G、Aをつける(いわゆる3コードトリック)ことしかできず、それをメロディーのどの位置で変化させるかわからなかったので解決したい。
②も割と当然かもしれないが、毎回同じコードを繰り返すだけではつまらないし、特に雰囲気を最も作るギターがそれではよろしくないだろう。
③がかなり良いギタリストかどうかを分ける境目ではなかろうか。同じ曲で合ってもメロディーをよく聞いて様々なスタイルで演奏できるといろんな人に好きになってもらえる気がする。
④は今はほんとによくわかならいのでこの後は書かないが、ギターだけでも聞いていられるようなメロディカルなコードをつけられたら本当にかっこいいと思う。

てか、John Doyleやっぱ全部こなしてるのすごいなぁ。ちゃんと見ると、Martinの演奏に合わせてコードとストローク選んでるのがよくわかる。




まず理論上のコードワークだが、アイリッシュの主な調は以下なので、他はカポで対応すれば良いだろう。(全部カポで対応しようとするのはAパートとBパートで調が変わることもよくあるし危険だ。)

  • メジャー系
    G: G(Em)、C(Am)、D(Bm)
    Dmix: D、G(Em)、Am(C)
    D: D(Bm)、G(Em)、A(F#m)
    Amix: A、D(Bm)、Em(G)

  • マイナー系
    Am: Am(C)、F(Dm)、G(E)
    Ador: Am(C)、D、G(E)
    Em: Em(G)、C(Am)、D(B)
    Edor: Em(G)、A、D(B)
    Bm: Bm(D)、G(Em)、A(F#)

代理コードも含めるとこんな感じだろうか。(覚えんの大変だ)

では、曲ごとにどうやってコードを決めるか。やはりそれは曲のメロディーに訪ねてみるのが一番だろう。

例えば、Mountain Roadは「F2AF BFAF / F2AF EFDE / F2AF BFAF / G2FG E2DE」だが、メロディーアレンジの要領で簡略化していってみる。すると「F3F F3F / F3F E3E / F3F F3F / G3G E3E」となり、 さらに「F12 E3 / F8 G4 E4」のようにできる。

コードの構成音から考えて、Fに対してはDのコードを、Eに対してはAのコードを、Gに対してはGのコードを入れれば少なくとも外すことはないだろう。このようにメロディの芯に通ってると思われる音を感じるのは大事だと思う。

他にも、Cregg's Pipeならば、「B3B BAGA / B2GB AGEG / B3B BAGB / AcBG AGEG」なので、「B12 A4 / B8 c4 A4」というようになるので、G、D、G、C、Dとつけておけば間違いはないように思われる。

ここからさらに変化をつけるとすれば、

  1. 代理コードを用いる。
  2. コードの変化位置をずらして、あえて外す。

といった感じだろう。


上のようにコードワークがわかるようになればひとまず合わせられるようになる気がする。 しかし、アイリッシュ音楽はよくベースだけを動かすこともよくあるようなので、そこも考えたい。

例えば、Mountain Roadはあまりメロディの動きが大きい曲ではないので、基本的にDを鳴らしていてもよくて、ベースのみD⇨G⇨Eと変化させれば、擬似的に上記のコードワークを行える。

他にも曲に合わせて一音だけ変化させるようなことがあるため、コードをDとかGとか大まかに捉えるだけでなく、自分がどの構成音でそのコードを作っているのかも大事になってくる。 また、そのためには弦のどの位置で何の音がなるのかすべて直感的に把握できるといいと思われる。音階やメロディーを練習しよう。

そして、ギターの音とメロディの音を一致させていくことで、メロディのアレンジにも合わせられるようにもなると思う。


う〜〜ん、まだこの程度のことしか勉強できてないけど、これから頑張ろう。

ひとまず誰か僕にギターを買ってください。

ちょっぴり過激なアイルランド音楽のこと

結局、「分析哲学との出会い」という前回の投稿から1ヶ月半も経ってしまった。

ICFだとかバイトが忙しかったのもあるが、そもそもコツコツと何かをするのが向いてないらしい。 ただ、最近少し思うこともあり、新年度にもなったので、ちょっとだけアイルランド伝統音楽について書いてみようと思う。(以下アイルランド音楽と呼ぶ。)


僕はこの音楽が大好きだ。
しかし、「じゃあ、アイルランド音楽ってどういう音楽なの??」とかって聞かれても困ってしまう。 この音楽の本質みたいなものは全然わかってないし(そもそも本質なんてないかもしれないし)、色々な人の演奏を聞けば聞くほど「これもアイルランド音楽なんだ」と驚かされてはまたよくわからなくなる。 はじめさんの言葉を借りるならほんとにツンデレなんだ。

でも一つ僕なりに気づいたことはある。(というと偉そうか。違うだろと思っても怒らないでほしいが。)
アイルランド音楽は確固とした概念ではなく、あくまで一つ一つの演奏の集合であるということだ。

卵が先か鶏が先かみたいな話になってしまうが、アイルランド音楽の形成にその演奏は必要だし、逆に演奏しようと思えばアイルランド音楽は必要でどちらが先というものではない。 そして、様々なプレイスタイルが今や当然のようにあるが、それらが最初からアイルランド音楽の集合に加わっていたわけではないと思う。 それらがアイルランド音楽として認められた時にはじめてその演奏はアイルランド音楽になり(外延化)、同時にアイルランド音楽の枠づけ(内包)もその度その度に変化する。 なので、50年前のアイルランド音楽と今のアイルランド音楽は全く違うものだし、これからもその変化が続いていく。
少し難しく書き過ぎてしまったが、つまりアイルランド音楽は、その時代に認められている演奏の集まりだから、変化し続けるよね」ってことだ。


あと、ここで、大事だと思われる要素が2つある。 1つはアイルランド音楽として認められる」ということ、もう1つがアイルランド音楽に変化を与えられる」ということである。

1つ目の「アイルランド音楽として認められる」という点だが、もちろん明確な基準があるわけではない。 アイルランド音楽のチューンを弾くことでも、セッションに参加することでも、コンペティションで優勝することでもない。 なんだかよくわからないが、じわりじわりと認められるものだろう。 少し残念なのは、日本人にはその「認める」という権威はあまりないということだ。だが幸運なことに最も権威的なアイルランド人はとても寛容で様々な変化を許容してくれる。

そしてかなり繋がっているのだが、2つ目の「アイルランド音楽に変化を与えられる」という点だが、それを可能にするのはもともとはアイルランド音楽でなかったものだ。 当然なのだが、既存の枠組みに全く収まってしまっている演奏では枠組みを変化させることはできない。 伝統を継承することは素晴らしいことだし、枠組みを変化させることが良いことであるとも限らないのだが、Martin Hayes、Kevin Burke、Liz Carrollのようなかなり独特な奏者がいたからこそこの音楽の枠組みはさらに拡張したというのは重要だ。


まあ、僕の結論としては「アイルランド音楽って変化し続けているから捉え切れるものではなくて一貫した本質なんてないよね。」ってことだ。
だからあまり難しいことは考えず、自分の音楽を探しつつそれがアイルランド音楽として認められたらいいなと思っている。(流石にそれでアイルランド音楽の本流を変えようなどと大それたことを考えてるわけではないが。)


これからしばらくアイルランド、イギリス、アメリカ、あとはタイとかインドとかを回るつもりだが、自然とそうできたらなと思う。 では、いってきます。

P.S. 最近見つけたYouTubeの好きな動画貼っときます。


Fleadh Cheoil 2013 - Episode 2 (Part 1/2)

分析哲学との出会い

「なんで哲学なんて浮世離れしたものを勉強しているんだ自分は」とよく思う。どこで道を踏み外してしまったのか()

いくら意味を聞いてもわからない言葉は出てくるし、就職の何の役にも立たないし(なんなら面接で哲学やってますて言ったらマイナスじゃないか?)、もともとどうしようもない感じの人間だったがもっとどうしようもなくなりそうだ。

だが、大学で哲学に出会ったことを後悔しているかというとそうではない。

そもそも哲学にはずっと昔から出会っていたのだ。



(たしか4,5歳の頃だったと思うが、)子供の頃に受けた人生最大のショックは「家族でも心が繋がっていない」だった。「何を当たり前なことを」と思う人が大半だと思うかもしれないが、その頃まで家族はみな全く同一の思考を共有していると信じて疑わなかったし、そうではないと気付いた時は独り泣いてしまった。(逆にその頃までそう思えていたのは両親に恵まれていたのだろう。)

「家族でも心は違う」、そう感じたきっかけは忘れてしまったが、特に叱られたりしたわけではなかったと思う。 ただ、ふと気付いてしまったこのことが自分の哲学の始まりだったような気がする。



そして、当然その後は自我を確立しつつ成長を続けるのだが、次の契機を高校時代に迎えた。 これはたしか古典の授業で性善説性悪説を扱った時だったのだが、ふと「そもそも自分たちは心だけでなく世界すらも共有できていないのではないか」と感じたときだ。

その後も、「生まれた時から性質が異なっているのではないか」、「国や文化によって見えているものが違うのではないか」など世界に対する疑いは溢れてきりがなかったが、もっとも気になっていたのは「色覚差があっても感覚そして世界は共有できているのか」だった。

例えば、僕が青色に視えているものが、Bさんには「私にとっての赤色」に視えていたとしても、Bさんはずっとその色を「青」だと思って育ってきているので、その違いを証明することなどできないのだ。このことは、色覚差に限らず、聴覚差、嗅覚差などにも言えることであり、もはや絵画や音楽の美しさ、料理の美味しさなどは本質的に共有できないとも考えられる。

この問いのせいで、幸せではあったのだが、なんだか時折ひどく虚しくなっていた。(まあ、所詮人は孤独だと割り切れてもいたが。)



そして東京大学に入学し、正直最初の数年は遊び呆けていたのだが、色覚差を勉強してあの問いを解消するために心理学を学びたいと思っていた(特に東大の心理学は脳科学にとても近いのもよかった)。

しかし、遊び呆けていたツケにより進振り制度によって心理学には進むことができず、美学芸術学に進むこととなった。 自業自得と思いつつ少し悲しかったのだが、授業として受けた富山豊先生の論理学や三浦俊彦先生の分析美学に惹かれ、そして野矢茂樹先生の分析哲学の授業に出会い、自分がやりたいのはこれだったのだと感じた。

分析哲学は論理学や言語を礎として感覚よりも言語的概念による世界の捉え方を目指すので、これならばあの問いになにかしらの答えを出せると確信し、まだ道半ばだが、勉強を続けている。

また、分析哲学の論理学に則った議論は厳密で、本来学問とはプログラミングコードのようにバグがひとつでもあれば全体に影響が及ばされるものでなくてはならないと思っている自分にとって(他の哲学を否定するわけではないが)性にあっていると思った。 また分析美学ではなく分析哲学を勉強しているのも、分析哲学の方がより厳密で本質的だと感じたからだ。(分析美学が分析哲学の美しさを失っているとしたらなんという皮肉だろうか)

ともあれ、分析哲学を学んでいくことに後悔はないし、大学に限らず社会に出てからも人生の一つのワークにしていこうと思っている。



今後、分析哲学を主として気になった哲学的な議論をいくつかピックアップしていこうとは思うが、圧倒的な知識不足がために哲学科の人には稚拙な議論であり、逆にそうでない人にはよくわからない議論になってしまうかもしれない。ただ、できるだけ双方にも伝わるよう努力はしようと思う。では。

P.S.昔、高校生のときに金曜特別講座なるもので野矢茂樹先生の授業を映像で受けたのだが、帰ってから母親に「今日の授業面白かった!マタニティの話だったんだけど!」と言った自分が分析哲学をやるというのも変な話である。(メタファーの間違いだった。今も母親にネタにされる。)

ブログはじめました

阿保貝(@FooliShell)です。ブログを始めることにしました。

自分の思考の足跡をどこかに残しておきたいと常日頃思っているのですが、Twitterだと文字数の限界もあったりなんだか真面目な?話をするのが少し恥ずかしかったりするので、どうしたもんかなと考えてました。

まあ、ただの足跡なので特に誰かに見てもらいたいわけですしメモ帳にでも残しとけばいいじゃないかという気もしましたが、一人で黙々とするのはなんだかむなしいし、一応誰かに見られるかもみたいな緊張感は多少は必要かなと思ってブログを選びました。

話題としては、ほんとにどうでもいい話が8割、あとは哲学、アイルランド音楽、プログラミングの話らへんになるんじゃないかなと思ってます。

気になることがあれば、適当にコメントでもください。

ではでは〜〜