ちょっぴり過激なアイルランド音楽のこと

結局、「分析哲学との出会い」という前回の投稿から1ヶ月半も経ってしまった。

ICFだとかバイトが忙しかったのもあるが、そもそもコツコツと何かをするのが向いてないらしい。 ただ、最近少し思うこともあり、新年度にもなったので、ちょっとだけアイルランド伝統音楽について書いてみようと思う。(以下アイルランド音楽と呼ぶ。)


僕はこの音楽が大好きだ。
しかし、「じゃあ、アイルランド音楽ってどういう音楽なの??」とかって聞かれても困ってしまう。 この音楽の本質みたいなものは全然わかってないし(そもそも本質なんてないかもしれないし)、色々な人の演奏を聞けば聞くほど「これもアイルランド音楽なんだ」と驚かされてはまたよくわからなくなる。 はじめさんの言葉を借りるならほんとにツンデレなんだ。

でも一つ僕なりに気づいたことはある。(というと偉そうか。違うだろと思っても怒らないでほしいが。)
アイルランド音楽は確固とした概念ではなく、あくまで一つ一つの演奏の集合であるということだ。

卵が先か鶏が先かみたいな話になってしまうが、アイルランド音楽の形成にその演奏は必要だし、逆に演奏しようと思えばアイルランド音楽は必要でどちらが先というものではない。 そして、様々なプレイスタイルが今や当然のようにあるが、それらが最初からアイルランド音楽の集合に加わっていたわけではないと思う。 それらがアイルランド音楽として認められた時にはじめてその演奏はアイルランド音楽になり(外延化)、同時にアイルランド音楽の枠づけ(内包)もその度その度に変化する。 なので、50年前のアイルランド音楽と今のアイルランド音楽は全く違うものだし、これからもその変化が続いていく。
少し難しく書き過ぎてしまったが、つまりアイルランド音楽は、その時代に認められている演奏の集まりだから、変化し続けるよね」ってことだ。


あと、ここで、大事だと思われる要素が2つある。 1つはアイルランド音楽として認められる」ということ、もう1つがアイルランド音楽に変化を与えられる」ということである。

1つ目の「アイルランド音楽として認められる」という点だが、もちろん明確な基準があるわけではない。 アイルランド音楽のチューンを弾くことでも、セッションに参加することでも、コンペティションで優勝することでもない。 なんだかよくわからないが、じわりじわりと認められるものだろう。 少し残念なのは、日本人にはその「認める」という権威はあまりないということだ。だが幸運なことに最も権威的なアイルランド人はとても寛容で様々な変化を許容してくれる。

そしてかなり繋がっているのだが、2つ目の「アイルランド音楽に変化を与えられる」という点だが、それを可能にするのはもともとはアイルランド音楽でなかったものだ。 当然なのだが、既存の枠組みに全く収まってしまっている演奏では枠組みを変化させることはできない。 伝統を継承することは素晴らしいことだし、枠組みを変化させることが良いことであるとも限らないのだが、Martin Hayes、Kevin Burke、Liz Carrollのようなかなり独特な奏者がいたからこそこの音楽の枠組みはさらに拡張したというのは重要だ。


まあ、僕の結論としては「アイルランド音楽って変化し続けているから捉え切れるものではなくて一貫した本質なんてないよね。」ってことだ。
だからあまり難しいことは考えず、自分の音楽を探しつつそれがアイルランド音楽として認められたらいいなと思っている。(流石にそれでアイルランド音楽の本流を変えようなどと大それたことを考えてるわけではないが。)


これからしばらくアイルランド、イギリス、アメリカ、あとはタイとかインドとかを回るつもりだが、自然とそうできたらなと思う。 では、いってきます。

P.S. 最近見つけたYouTubeの好きな動画貼っときます。


Fleadh Cheoil 2013 - Episode 2 (Part 1/2)